人の家で、甲子園を見ている

僕は中学生の頃、野球をやっていた。
その事実を、僕は高校生以降の人生において人に公表することを控えている。
イチローになりたくて始めた野球のお陰で、チームのメンバーに迷惑をかけ(人数が少ないからヘタクソでもレギュラーだった)、どんどん性格がねじれていった中学3年間。
あの体験が、ひねくれた僕の側面を作り出している。


甲子園(高校野球)は特に好きでもなくて、ダルビッシュが出ていた時くらいしかきちんと見ていなかった。
その時の僕は中学生で、僕にとっての甲子園は感覚的には随分と年上の世代の舞台と思っていた。
それはグラビアについても全く同じ。
高校生くらいの女の子たちが、文字通り体を張って、人生の大事な時期を燃焼している。屈託のない笑顔で、コンビニのライトなんか比べ物にならないくらない、店内や街を照らしている。

自分の身の回りに高校生なんていなかったから、生まれたヒナが、初めて見る生物を親と思うのと同じように、僕らは高校生になればそういう風に人に希望を与えられると、そう思っていた。


けれど、どうだろう。
気がつけば、甲子園は年下達の夢の舞台になっている。
グラビアアイドルは、平成5年(僕は平成2年生まれ)くらいの女の子たちがあいも変わらず燦々照り付ける笑顔を見せている。僕はお父さん気分で「この子たちは、自分たちの青春を犠牲にして頑張ってるんだ。美しい」とか思ってしまったりする。



ときたまに、こんな風に生きていてよいのだろうかと考える。
別に鬱とかそういうネガティブな思考ではなくて、彼女たちが、彼たちが、あんなにも命を燃やしているのに、俺は悠々と東京チカラめしを頬張って、幸せを感じていていいのか?と問いかけてしまう。
きっと、その幸福は間違ったことではない。誰からも否定される余地のない権利だろう。

けど、俺はそれでいいのか?
と燦々照り付ける太陽の中、白球を追いかける少年を見てそう思わずにはいられない。
男の子の家にお泊りしたくらいで、髪の毛を剃るまでの精神状態に置かれる女の子たちを見て、そう思わずにはいられない。


自分が仮にホームランを量産出来うる人種であったなら、自分の未来は変わっていたのだろうか?と問いかける。
少なくとも、こんな風にひねくれた人にはなっていなかったのだろうか?とぢっと手を見る。
答えはない。



PS.このブログを書いた時には、どうして審判なんて古臭いシステムが機能しているかを書こうと思ったのですが、こんな話になってしまった。それほど、中学の野球体験が僕の考え方の根底に根付いているのか。
審判制度については、ほんとにおかしいと思うのですよね。審判なんて完璧な判断が出来ないし、そのこと自体は否定するべきことでもないかなと思うのですが、そのことによって無念の涙を流す選手がいること(それは同時に青天の霹靂の喜びが生まれていることを意味する。)は忘れちゃいけない。
水泳や陸上競技の様に、時代とともに、正確性を増すシステムを構築しようと思わないのかな。と、よく考えます。