実家の本棚

僕の家の本棚に、本は並んでいなかった。
そこには本の代わりに録画した大量のVHSと、父がUFOキャッチャーで取ってくれたウルトラマンの人形たちがいた。
本棚なのに本は松本人志『遺書』1冊だけ。
そんな状態のシロモノを本棚と言っていいのかは、よくわからないが
棚の形状としては、立派な本棚といえる形をしていた。

僕の家には本を読む文化というのは存在しなかった。
あるのはTVとゲームソフト。
幼稚園から小学生を卒業するまで、僕はひたすらそれに打ち込んだ。

中学生になって、ゲーム機が壊れた。
アルバイトが出来る年齢では無かったので、大切なアフターファイブの友達がいなくなってしまった。
そんなときに音楽と出会えたのは振り返ってみると、僕にとっては小さな奇跡だったかもしれない。
僕は大学3年生で音楽を辞めるまで、文字通り毎日ギターを弾いていた。
プレイヤーとしてはあんまり大した結果は残せなかったけど、充実した毎日を送ることは出来ていた。

音楽を辞めて時間ができた。僕は自分の手で進んで本を読むようになった。
手に取る本はどんなものでも面白かった。
マーケティングの本も、日本の小説も、海外の小説も、ウェブプログラミングの本も面白かった。
ついでながらに懺悔すると自己啓発書も面白いと思って、付き合ってもない好きだった女の子に
あげてしまったくらいだ。無知というものは過去を思い出させることを躊躇させる強力さをも持っている。

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僕は大学3年生の時に知的好奇心の塊のような教授に出会い、感化されたお陰もあって習慣的に本を読むようになった。
年によって、ばらつきはあるがそれ以来、年間70冊〜150冊くらいは読んでいると思う。
なるべく客観的に見てみると、比較的に本を読んでいる方だとは思う。
だけど、世の中には知識を求めるモンスターみたいな人も存在して、
そういう人達は桁がひとつ違ったりするので、そう誇れる数字でもない。
かといって世間の半分くらいの人は本をほとんど読まないし、
読んだとしてもマーフィの法則だったりするというのも、頷ける現実感ではあったりする。僕の家のように。

そもそも論として、別に本を読んでいるから偉いとかそういうものでもない。
多くのことを知識として所有していても理解していなければ、そう意味を成さない。
量より質。だけども質は量と比例する。知識を増やすことで理解するきっかけを多く得ることが出来る。
いささか性急な論理の飛躍を許してもらえるなら世界を知るというのはそういうことだと思う。

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話を戻そう。
中学生の頃、友達の家で見た本棚には本が目一杯詰まっていた。
僕の家の本棚といえば、『遺書』『イチローイズム』ハリーポッターの初期三作の5冊に増えていた。
鈍重ながらも少しずつ増えている。けど、友達に自慢が出来るか?僕は首を横に振った。

家に立派な本棚があったならどんな人間になっていたんだろうと、手に握った難解な本から逃げ出しながら、寄り道しながら、僕は時々考える。