コンビニについて語るときに僕が語ること

コンビニは、高度資本主義社会が生み出したなかで、もっとも美しい造形品のひとつだ。
店の扉をくぐってみると分かるように、そこには商品たちと共に、合理的なシステムが所狭しと並べられている。
厳選され尽くした約2000種の商品。現代の芸術的センスを集約した美しい配置。明るいネオン。ネオン。ネオン。
店員達の顔もどことなく機械的で、人間的なところはない。敢えて言うなら、不機嫌そうなしんどい顔がもっとも人間らしいといえるだろうか。

「コンビニが出来てしまったから、街の商店街は姿を消してしまったんだ。
コンビニが出来てしまったから、商品を購入するときに生まれていたコミュニケーションは消失して、それが積もって引きこもりなどの社会現象がおこってしまったんだ。」
と、どこかの懐古主義者は言う。悲しみも怒りも一緒に濁らせて。

いささか誇張しすぎている面もあると思うけれど、一部では事実なんだろうと僕は思う。
そういう街もあった。遅かれ早かれ、コンビニが存在していなくても潰れていたものもあった。

だが、コンビニは全てを奪ったのか?
シャッター街を全国の地方に生み出したコンビニは、全てを奪い、資本主義国家のグラフの為の成長に役立っただけなのだろうか?国民にコンビニエンスを提供しただけなのだろうか?

僕はそれだけでないことを知っている。
合理的なシステムの巣窟で、色んな出来事があったことを僕は知っている。

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今日もコンビニは大盛況だ。
不況と言われる時だって、僕が働いていた店では少なくとも一日に50万円以上の売り上げを維持していた。それらが店舗を切り盛りするオーナーのもとに適切に還元されているかという質問には、それもまた、資本主義の徹底的に無駄を排除した美しいシステムが機能していて、給与明細を表示するスクリーンには、オーナーの悲しい顔が浮かんでいるかもしれない。
しかし、店内を見回してみると、老若男女様々な人達が色々な表情を浮かべ、芸術的に配置されたショースペースを眺めている。

若い青年が、乾いた喉を潤すドリンクを物色し、土方の人々は腹を満たすための食べ物を眺め、子どもたちはうまい棒の味を見比べている。
そして、コンビニは若い人たちの為の場所でもない。
おじいさん、おばあさんも大勢いる。

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ある、1人のおばあさんがコピー機の前で老眼鏡を掛けて、スクリーンの文字と一生懸命格闘している。
僕はそれに気づきながらも、レジの行列に対処し、おばさんを横目で眺めるだけだ。
第一、助けを求めていないお客さんのところに、わざわざ向かうのは、合理主義の美学に反する。僕は合理主義の美学を尊重した。
そうして、接客をこなし、おばさんのことを忘れているつかの間に、コピー機の前から、大きい声が聞こえた。
しかも、それは僕に向けられている声だった。

「コピーできたよ!コピーできたよ〜!」

おばちゃんはとっても笑顔だった。片手には、刷り上がったばかりのコピー紙が、こどもの日の鯉のぼりのように、おばちゃんにひらひらと風を感じるように動かされている。

僕は、接客をしながらも、なぜだか急に泣きそうになった。
「どうして、コピー機でコピーが出来たくらいで喜んでるんだよ。
コピー機なんだからコピー出来て当たり前じゃん。」
僕は、そんなことを思いながら、おばあちゃんの笑顔と、おばちゃんの手に握り締められている紙を忘れないように見続けた。

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コンビニで長く働いていると、こういう場面はたくさんあって(もちろんそれと同じくらいか、それ以上に楽しくないこともある)そういったことをたくさん書こうと書こうと思っていたけれど、少し長くなりそうなのでやめる。

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あくなき資本主義の追求によって、人の情とか、温かさみたいな、情緒的なモノが無くなっていくみたいなことを言う人がいるけど、そんなことはないと思う。
人は資本主義に飲み込まれながらも、その恩恵を受けながらも、いままでどおり笑顔になったり、色んな人達と楽しく、上手くやっていくことはできるのだってことが言いたかった。もちろんその過程で、個人個人に悲しい出来事も少なからずあると思うけど。

これからどんどん、シャッター街のことなんて知らない子どもたちは大きくなっていくけれど、
好きだった街の商店街が消えていって、同時に笑顔が消えていくお年寄りの方は増えていくかもしれないけれど、
それと同じくして、新しい場所で、新しい暖かさや、新しい笑顔の種類が生まれていくのだと思う。

少なくとも僕は、コピー機でコピーをできたおばちゃんを見て、泣きそうになりながら笑うとは思っていなかった。