TADA VS NINTENDO

今日は、家で、のんびりと英語のお勉強と、プログラミングの勉強(現在、簡単なHTMLすらも怪しい)でもしてみようかなーと思っていたのですが、
昼ごはんの時に、母からゲームボーイを発見したのよと言われて、起動する、確認ついでにやってみました。


ちなみに入っていたカセットは
「スーパマリオランド2・6つの金貨」というゲーム。

スーパーマリオランド2  6つの金貨

スーパーマリオランド2 6つの金貨

横スクロールの従来のマリオのゲームとほぼ同じ感じで、6つの金貨を集めると、ラスボスのワリオと戦えるという展開のゲームでした。

やってみるとめちゃくちゃ簡単で、6つの金貨を集めるのに、40分もかからず、ラスボスのステージまで、行くことができました。
やっぱり、大人になったから、簡単に感じるなぁとか、昔はこんなことにも苦労していたのかなどと思いながら、
最終ステージで、ワリオのもとまで進んで行くのですが、、、

かなり難しい。
鬼のように難しい。

大人の実力で、貯めた45機のストックもみるみる減っていきます。
ワリオに辿り着けることもなく、マグマに落っこちたり、鉄球に撲殺されてしまうのです。
ワリオのもとにも数回たどり着きましたが、ワリオにコテンパンにされてしまいます(まぁでも、ワリオはそこまで強くはない。)。

ついにストックがラスト一機に...
僕はゲームボーイのスイッチを切りました。

気づいたら、楽しむことを忘れてました。
怒りに狂って十字キーを操作、Aボタンで逃げ惑うクリボーたちを業火の炎で抹殺、
Bボタン、ダッシュで、ステージを見ることもなく、鬼のような脱出劇。

子供の頃って、クリボーをやっつけること自体が楽しみだったり、ステージのコインを集めるのが楽しみだったりしたと思うのですが、大人になった自分は、黙々とゴールを目指して、ステージを過ぎ去っていっていたのです。
(最初はコイン集めもしていたのですが、クリアしたいという思いが強すぎて、途中からほとんど、アイテムなどには見向きもしませんでした。)


子供時代って「過程」を楽しむことを純粋にできたんですよね。
実際にはなんの意味もない*1、コインを一生懸命集めたり、倒す必要もない、クリボーもノコノコも全部倒したり、(倒しません?自分は倒す派でした。)ステージクリアよりも、ボーナスステージで高得点を叩きだすことに意味合いを大きく感じたりとか。

今でも、その気持ちは無くはないのですが、子供の頃に比べてみると、効率を求めたりしてしまいます。
まぁ子供時代は鬼のようの時間があって、遊べるモノも今と比べるとそこまでなかったので、一つのモノをやりこむというのが、自然な環境だったのかもしれませんね。

やっぱり、過程を楽しむってことはほんとにすごく重要なことだと思います。
過程を楽しめると、ステージ自体の楽しさも、クリアの楽しさも、味わえる。
一粒で二度美味しい。

でも、きっとそれは、かなり当たり前のことで、任天堂というか、ゲーム会社はそう考えて作ってると思うのですが、僕みたいに、結果だけを求めて、クリアするのって本当に楽しいのでしょうか。
ガチャをコンプして、心から楽しいのでしょうか。
それはそれで楽しいのかもしれません。遊戯王などのカードゲームでも、欲しいカードが入っていた時の感動は確かに大きかったです。
だけど、その過程はどうなんでしょう?
外れる度にイライラしていないでしょうか。
そして、どんどん楽しむことを忘れて、欲しいカードがあたった時に喜びじゃなくて、安堵のため息が出てるとしたら、それはあまり良いことではないのでは、と僕は思ってしまいます。

そんな状況に陥ってると気がついたら、ちょっと一旦、スイッチを切ってみて、
過程を楽しめるものってなんだろうとか、ゲームってなんだろうってことをちょっと考えてみてください。

これってゲームだけでなくて、なんにだって言えることですよね。

*1:ちなみにゲーム自体に、意味がないという人もいたりしますが、僕はそこまで、ゲーム=悪だとは思ってません。ゲームをすることで学ぶことはたくさんあると思います。